映画「アジャストメント」

物語は、ニューヨーク州の上院議員選挙に出馬したデビッド・ノリス下院議員(マット・デイモン)が、下半身を露出した写真をゴシップ新聞にスクープされて落選、意気消沈しながらも敗北宣言の演説をトイレでぶつぶつ練習していると、男子トイレなのに個室からエリースという女性(エミリー・ブラント)が現れます。二人は意気投合するのですが“調整局(アジャストメント・ビューロー)”と名乗るスーツ姿の男たちが現れ、二人を引き離そうとする、という展開です。 調整局の人間(?)たちは、我々人間の運命を本に書かれているとおりに守ろうと右往左往しているそうで、こんなことは「アラビアのロレンス」でアウダやアリたちが運命は書かれている(It was written.)”と言うとロレンスが“Nothing is written.”とやりかえすシーンで終わっていたはずなのに、それを50年後にわざわざ1本の映画にするか? とまあ、この時点で僕はこの映画と気持ちはおさらばしていたわけです。車買取高額中古車査定のカウル君

2008年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞したフランス映画です。

中学で国語(つまりフランス語)を教える教師フランソワ・ベゴドーが書いた原作を基に実際の中学生たちから出演者をつのって7か月間追いかけて撮影したドキュメンタリーです。

国語教師フランソワ・ベゴドーが担任するクラスは、アルジェリア、マリ、中国などさまざまな出身者24人が集まっています。フランス語が正しく理解できない部分もあり、そういう意味で学力に問題がある。さらに授業をまともに聴こうとしないくせに、権利意識だけはあるという始末におえない状態です。フランソワは、なんとか生徒たちに社会生活ができるように導こうとしますが、ほとんど空回りに見えます。

とまあ、そんな“無政府状態”の授業、教師に対するリスペクトも中途半端で、その場その場の出来事に反応するだけで毎日を過ごしている生徒たちの姿が延々と2時間映し出されます。これはなかなかインパクトがありました。僕が体験した中学校というものとは全く違います。

映画「若き日のリンカン」

エイブ(ヘンリー・フォンダ)は幼いころに母を亡くし、思いを寄せていたアン(ポーリーン・ムーア)も亡くしてしまいます。それほど19世紀半ばのアメリカ(イリノイ州)の自然は過酷だったのでしょう。雑貨商を継いでいたエイブは、布地の代金の代わりに得た法律書に興味を持ち、法律を志します。そして弁護士見習として町に出て、借金問題でいがみ合う人々の問題を実際的に解決します。しかし決して法律家として優れていたわけではなかった。そんなとき、自分の母に似たクレイ夫人(アリス・ブラディ)の2人の息子が殺人犯として逮捕される。エイブはその弁護を買って出る、という展開です。

冒頭のアンとエイブの会話がいいですね。日常的な会話に見えて、その裏にお互いを思う気持ちがふつふつと感じられる。そのさらりとした味わいが、雪景色に転じてすぐ墓参りとなる。この語り口が最高です。「荒野の決闘」のジョン・フォード・バージョンは、まさしくこれだったのだと思ってしまいます。

 

エイブが、依頼人を前にして机の上に足を投げ出しているという、一見不遜なスタイルは事実だったのでしょうか。僕には「荒野の決闘」でイスに座って、足で柱を蹴りつけてバランスを取っているワイアットを思い出しました。

映画「ビキニの裸女」

ブリジット・バルドーが17歳の時に出演していたフランス映画です。

物語は、地中海のラベジ島というところにバカンスに出かけたフランス人の学生が、5年後に専攻した考古学の授業でラベジ島付近でフェニキアの船が財宝を摘んで沈んだ話を耳にします。5年前拾ってきた壷を見せると、先生は“間違いなくフェニキアの壷”と認める。そこで学生は宝探しに出かける、という展開です。

BBの役は、5年前に小娘だった灯台守の娘で、少女の声がBBだったので驚きましたが、これはアフレコだけやったんでしょう。子供にやらせるよりBBがやるほうが現実的です。

上映時間が90分に満たない作品なのに、半分くらいまでBBが出てこないという展開には参ります。当時は新人女優だから当然といえば当然ですかね。しかしひとたび画面に現れると、BBの魅力だけで十分です。フェニキアの宝なんか、ほんとどうでもよくなります。

BBの若々しい肉体には魅力があります。

映画「ユキとニナ」

物語は、パリに暮らす9歳の少女ユキのフランス人のパパ(イポリット・ジラルド)と日本人のママ(ツユ)が離婚することになり、ユキが悩むというもの。仲よしの少女ニナとどうすればいいかいろいろ考えますが、両親の離婚はとめられない。

諏訪監督については何も知りません。「パリ、ジュテーム」のウィレム・デフォーとジュリエット・ビノシュのエピソードが面白かったので、「不完全なふたり」を見たらこれが全くダメでした。「パリ、ジュテーム」には、静かなタッチとそれを包み込む柔らかい雰囲気がありました。でも「不完全なふたり」には、離婚の危機に直面した夫婦のギスギスした感覚しかない。離婚にはギスギスした感情が伴い、ものすごくエネルギーを消費することは承知していますが、それを映画の中で観客にぶつけてどうする。そういうリアリズムを、くそリアリズムというのです。2007年に「不完全なふたり」を見たのですが、日記にアップしてませんね。よほど気に入らなかったんでしょう(笑)。←他人事のようにしてしまいます。

今回も離婚話が中心です。それが幼い子供に大きな影を落とすのですが、だからといって結婚生活を続けることが正解ともいえない。今回の救いは、その離婚話そのものがテーマではなく、それによって傷つくユキの内面がポイントになっていることです。ユキとニナが、いろいろと画策するわけで、その画策そのものより、ふたりで何かしようとしている場面が面白いです。

「ケネディ家の人びと」

物語は、第二次大戦中にイギリス在住の大使だった父親ジョー(トム・ウィルキンソン)が、ナチスを容認するような発言をして戦争回避をもくろんだことが裏目に出てルーズベルトに解任され、自らが大統領になる夢を断たれたことから始まります。そして息子たちにその夢を託すのですが、長男は戦死、次男は大統領になったものの射殺され、三男のボビーは予備選挙中にこれまた射殺されるというところまでです。末弟エドワードの話は全く出ませんでした。

僕にとって鮮烈だった大統領暗殺事件は、それこそ数多くの映画やニュースフィルムで見ているから今更ドラマで見せられてもという感じ。とくにこのミニ・シリーズのように、新しい切り口が大統領暗殺に関しては何もないという部分にはもどかしさを感じます。マフィアとの関係とか、ジョンソンの画策とか、そういう“奇抜な切り口”を前面に出すのはまだまだ問題があるのでしょう。だったら何のためにミニ・シリーズにしたんだと言いたいです。

映画「ゼロ時間の謎」

監督が、「奥さまは名探偵」でとぼけた味を楽しませてくれたパスカル・トマで、やっぱりアガサ・クリスティーの原作を映画化したものです。

冒頭に、ゼロ時間という言葉に対するもっともらしい説明がありますが、それが映画の謎とかを深めるものではなく、単に作者が“私はこういう状況をゼロ時間と呼びますからね”という以上のものではないのでまずがっかり。自分勝手に定義してこういう意味の言葉だと言われても、僕には関係ありません。

さらにバタイユ警視(フランソワ・モレル)の娘が学校で問題を起こしたなんて話も、僕には余計な話です。

問題は、犯人逮捕となる決め手の証言がウソだというところがバカバカしいです。

突然証人が出てきて事件は急転直下解決に向かうわけですが、僕はその証言が出てきたときに“?”でした。というのは、犯行当時雨が降っていたから見えるわけない、と思ったからです。そしたら案の定、その証言がウソだったとなる。あほちゃうかです。一介の観客である僕が気づくウソを、ここまで慎重に犯罪を計画する犯人が見抜けないというドラマを、平気で作る神経が僕には分かりません。いや、僕には許せません。

「ロック・スクール ~元祖白熱ロック教室~」

「ロック・スクール ~元祖白熱ロック教室~」というタイトルは、「スクール・オブ・ロック」にひっかけて見せようとする意識がミエミエです。

しかしあちらはジャック・ブラックという個性が炸裂する劇映画。こちらはアマチュアの生徒たちにインタビューするドキュメンタリーです。

まず校長のポール・グリーンが、“ロック・スター”を育てると気勢を上げるのですが、ギターの早弾きができる12歳の少年をのぞいてたいした才能があるとは思えません。

その少年だって、早轢きだけじゃあね。さらに演奏する音楽がフランク・ザッパということになって、僕の興味はほとんどなくなりました。自分に興味のない音楽を熱心に演奏されても、というところです。

もちろん、その演奏がこちらの胸倉をつかんで、これでもかと迫ってきたのなら話は別ですが、結局のところ演奏会を前にしたステージフライトへの恐怖だとか、出来が悪いだとか、さういうありきたりの問題が噴出して演奏どころではない。せいぜい、帝王切開で生まれるときクビにへその緒が巻き付いて障害が残ったという生徒(正しくは、やめているから元生徒)の語りが少し興味を呼び興す程度でした。

やはりドキュメンタリーというものは難しいと感じます。

映画「恋する宇宙」

物語は、アスペルガー症候群の青年アダム(ヒュー・ダンシー)が、二人暮らしだった父親を亡くすところから始まります。アダムは宇宙のことをはじめさまざまな知識が豊富なのですが、それを語りだすと軽い会話にはならずとことん話し始めます。そのため人づきあいというものがうまくできない。保護者である父親が死に、遺書を管理していた弁護士は住んでいるアパートを売ることを薦めますが、アダムは環境を変えることを嫌う。そんなアパートに、失恋したばかりの小学校教師ベス(ローズ・バーン)が引っ越してきて近づきになります。

アダムを見守る黒人の男がフランキー・フェイソンでした。「羊たちの沈黙」などシリーズでレクター博士が信頼していた看守バーニーですね。ずいぶん貫禄が出てきた。そしてベスの両親がピーター・ギャラガーとエイミー・アービング。僕にとっては“最近の若手”だと思っていた俳優さんたちが、もはや立派な大人となった子供を持つ親を演じる年ということで、これには軽いショックを覚えました。

監督のマックス・メイヤーという人は初耳です。マーティン・シーンが大統領を演じた「ザ・ホワイトハウス」のエピソードを監督したりしているようですが、そのエピソードは未見です。この作品の11年前に一本監督しているだけ(あとはテレビが数本だけ)という寡作さにも驚きます。つまり何して食ってるんだろうという意味です。そして、そんな監督に映画を撮らせるという会社があるところもすごいです。

映画「許されざる者」

物語の結末は極めてハリウッド的と言えるでしょう。先住民に対して偏見を持つ次兄も家に戻り戦う。罪を犯した母親は死んでしまう。さらに血のつながりが無いと確認された長兄と妹が結ばれるであろうことを示唆する。今見ればなんともハリウッドにとって(つまりアイゼンハワー体制下のアメリカにとって)都合のいい結末です。しかしそれは当然でしょう。そういうハリウッドの常識を覆すということが、あの時代にはありえないわけですから。

それより僕は、先住民の娘であっても家族だという主張が気に入りました。ジョン・フォードが「捜索者」で、ジョン・ウェインを閉めだした家族がハンク・ウォーデンを家族として迎え入れる姿と同様、アメリカ社会を受け入れる人間はみんな家族という、ご都合主義だけどオープンな姿勢が好きです。もつろんこれはオードリーが演じているからOKなのだという限定的な部分もあります。

ほかにしなくてはいけないことが山積みなのに、見始めたらつい全部見てしまいました。